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新潟地方裁判所 昭和30年(ワ)280号 判決 1958年7月26日

原告 中原政信

被告 中原三作 外一名

主文

被告等は各自原告に対し金七万円を支払うべし。

原告その余の請求は棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告等の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告等は連帯して原告に対し金三十万円を支払うべし。訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として、「原告は昭和二十八年三月頃挙式の上被告等夫婦と事実上の養子縁組をなし、同時に被告等の養女トシイと事実上の婚姻をなし、次いで右トシイとの間には同年九月二十六日婚姻の届出を了し、その間に長女恵美子(同月二十七日生)をも儲けた。しかるに被告三作は翌二十九年三月上旬何等正当な理由がないのに原告に対し事実上の養子縁組の解消を迫り、原告は已むなく生家に帰つた。その后被告ハルの兄中野八郎の斡旋もあり原告は又被告等方に帰り家事に従事することになつたが、その后も被告三作は「お前とは同居できぬから」と口癖のように去家を迫るので原告も居堪らず昭和三十年八月再び生家に帰つた。かくて被告等は原告との養子縁組の届出をしないのみならず、その后人を派して原告に対し前記トシイとの協議離婚届出の書類に署名捺印を迫る等原告の人格を無視する態度にすら出で、原告と養子縁組をする意思は毛頭認められなくなつた。原告はもともと将来大学その他の上級校に入学することを目指して巻農業高校に入学し昭和二十八年三月同校を卒業したものであるが、その在学中から被告等より同人等との養子縁組及び前記トシイとの婚姻を懇望せられ、一旦は前途に目的を有する原告及びその両親として拒絶したものの、数次にわたつて熱望されるので、これを黙し難く遂に承諾し前記農業高校卒業の上事実上の養子縁組及び婚姻をなしたものである。しかして原告の実家は二町余の耕作地を有する中流以上の農家であつて、実父は最近失明する迄多くの公職につき、右のように原告の上級校進学に格別の期待を懸けていたのに被告等の熱望によりこれを放棄したものであり(この事情は被告等にも知らせた)、原告亦被告等に孝養をつくすこと三年、よく家業に励み、養家の耕作地一町六反の耕作の中心をなしてきたものであり、かたがた前記トシイとの夫婦仲も至つて円満であつたのに拘らず、被告等は前記のように原告との養子縁組の届出をなさずして、弊履を捨てるが如き憂目を加えたものであつて、これによつて原告の精神上に与えた打撃は甚大であるので、原告は被告等に対し連帯して慰藉料金三十万円の支払をなすことを求める。」と述べ、被告等の主張に対し「被告等は養子縁組の届出をしようとしたが原告は未成年であつたため手続はとれなかつたというようであるが民法上これをなす方法は存するし又原告が成年に達するのを待つてこれをなすこともできるのに敢えてこれをしなかつたのである。又被告等は原告が被告等の養女トシイとの婚姻をのみ希望し真実被告等と同居生活をする考はなかつたものであるというが、原告は現に被告等と終始同居して家業を手伝つていたもので、被告等の頑固さ特に被告三作から「帰れ、帰れ」といわれる辛さに堪えかねて職を求めたに過ぎない。殊に原告は家業にいそしむため巻農業高校を半途退学しようとした位である(もし当初から別居して他に職を求める意図があるなら就職の関係からも半途退学の申出をなす筈もない。)。しかしてその后前記トシイも被告等と協議離縁をなしたが、この事情から見ても被告等(特に被告三作)が如何に頑固一徹の性格で養子に酷であるかが想像されよう。なお、原告が被告ハルの病床にあつた際「この家にいる気はない、トシイがこの家の娘だからきたのだ」とか「自分がトシイと仲良くなつたのが悪ければ云々」等といつたことはないし、もしいつたとしてもそれは感情の行き違いから出たその場限りのものに過ぎない。」と述べ、立証として、証人金子三十郎、同中原トシイ、同陶山朝幸、同金子辰市の各証言及び原告本人の尋問の結果を援用した。

被告等訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、「原告がその主張のように被告等夫婦と事実上の養子縁組をなし、同時に同人等の養女トシイと事実上の婚姻をなし、次いで婚姻の届出をも了し、その間に長女恵美子を儲けたこと及び被告等が原告との養子縁組の届出をなさないことは、いずれも認める。しかし、右については次のような事情がある。すなわち前記婚姻の届出と同時に養子縁組の届出をもなさんとしたが、当時原告が未成年者(昭和九年十一月二日生)のため家庭裁判所の許可を要することが判明し、同人が成年に達するまでその手続を見合わすこととしたのであるが、原告は次第に家業の農業を嫌い被告等に何等の相談もせず他所に勤め口を探して農作の手伝も怠けるようになり、自ら被告等方を出で夫婦だけの生活を希望していたのである。しかも、その后被告等の指示する農作業にも従わないで反抗的態度に出で実家に帰つたこともあり、このときは被告等方から迎えに行つて一時納まつたが、その后も被告等と衝突して家庭は円満に行かなかつたのである。昭和三十年八月中再び原告が実家に帰つた際は、被告等は人を介して迎えにやつたところ夕方には帰るという返事であつたので夜半頃まで待つたが、姿を見せず、被告等就寝后原告は一人でトシイの部屋にきて手廻り品を持出し「こんな家には二度とこない」といつて出て行つたものである。なお、詳細は、(1) 昭和二十八年秋被告ハルが十二指腸症で大手術を受け秋の農作業ができず、トシイも出産のため実家に帰つていた際、原告は夜業に従事せず、巻町に行くとて出掛けたので、同町の医師から薬を貰いくるよう被告三作が頼んだのに、原告は同夜帰宅せず外泊し、翌日偶々出逢つた近隣の者から被告三作が一人で困つていることを聞かされながらその夕方にも帰らぬため、薬も他人に頼んで貰いにやつたことがある。(2) 同日原告帰宅后被告ハルがトシイに対しその事情を質したことから原告はトシイに対して「この家にいる気はない、お前がこの家の娘だからお前のところにきたのにお前がいなかつたら誰れがくるものか」といつたので、被告ハルが原告夫婦を呼び「そんなことでは困る、この家を継いで貰うためにきて貰つたのだからその積りで働いてくれ」と申したところ原告は「自分がトシイと仲良くなつたのが一番悪かつたらトシイと二人でこの家を出て行つたら良いだろう」と放言して反抗したことがある。(3) 昭和二十九年十月頃被告三作が農業組合の要件で富山県宇奈月温泉に出掛けた不在中、原告の実家から原告を一日丈け手伝に頼むと呼びにきたが、原告は帰つたまま被告等方には何等の連絡もなく東京へ勤め口を捜しに行き四、五日帰らなかつたこともある。(4) 前記昭和三十年八月には、その二十日早朝(午前四時頃)被告三作が牛肥の汲み上げを行うため原告に起床するよう再三促したが起床せず被告三作一人でその作業を終つた頃起きてきたので、原告に対し「この頃仕事に怠けているではないかもつと農業に励むよう」と注意したところ、原告はそれが不満で一日中仕事をせず部屋に遊んでいたので被告ハルの弟中野八郎をして原告に忠告して貰うことにしていたが、そのうち原告は無断で実家に帰り、そのまま帰らないので、被告等方では同月二十六日右中野等に依頼して原告を迎えにやつたが、原告は不在で、中野等は原告の父金子三十郎に迎えにきた旨を伝え帰宅させてくれと頼んできたが、その返事がないので、翌日又中野等を迎えに赴かせたところ、同夜親類の金子辰市が原告を送り帰えすとのことであつたが、連絡はなかつたもので、原告は東京へ行つたとてそのままとなつたものである。(5) 原告の入籍については、前記のように未成年者の養子縁組には家庭裁判所の許可を要するところから婚姻の届出のみを了し、これが届出については被告等が証人となつたものであり、養子縁組は右の事情なのでさしあたつて住民票に関する所要の手続をなした(被告等はこれを「仮籍」と諒解した)ものである。しかも原告の父三十郎は村役場に吏員として出勤しているので右の戸籍の届出のことを依頼してあつたのにこれを取り運んでくれなかつたものである。以上の次第であつて原告は自ら被告等との共同生活に協力しない(この点同居の親族は互に扶け合わなければならないとする民法規定の精神に悖るところである。)ものであるから、被告等において縁組の予約不履行の責を負うべきいわれはない。しかして、原告は右のように縁組ができなくなつたことにより上級校進学を断念したのも徒労に帰したというようであるが、もともと原告は被告等の養女トシイとの婚姻生活のみを望んで被告等と事実上の縁組関係に入つたもので、むしろ原告自身がその自由意思で進学をやめたものである。すなわち、原告とトシイとは同村より原告は巻農業高校に、トシイは中学校に日々通学するうち、通学の道が同じところから互に親しくなり恋愛関係に入り村人の噂にまでなつたので、時期尚早の感はあつたが、トシイも「生みの親でないので我儘が通せぬ」と不満を漏していたこともあり家庭の円満を考慮し、原告には特に、被告等方に同居して家業を承継しこれに従事することを諒承させたうえ、婚姻に同意し養子縁組をすることにきめ、昭和二十七年中に原告在学中のままこれを引取り通学させ卒業させたものである。しかるに原告は学校を卒業すると間もなく他に職業を求め夫婦二人きりの生活を営むことを計画していたものであつて、原告は当初から真実は被告等方に同居生活を続けるつもりはなくトシイと婚姻することのみを目的としていたものである。要するに被告等は原告の進学を阻止したなどというものではない。(ちなみに、原告は、昭和二十七年十一月頃被告三作が農作業中足の骨を折つて巻町所在の病院に入院した際、同町の農業高校に通学しながら同被告を見舞わず被告ハルの注意により入院四日目初めて唯一度顔を見せたきりで、被告三作の入院加療中その看護等をしなかつた事情もある。)なお、原告方、被告等方ともいずれも従前は小作農であつたものであるが、戦后のいわゆる農地解放により自作農になつたもので、被告等方は専ら農耕により生計を維持し、生活にはなんら余裕のないものである。被告等がトシイと協議離縁をした事実は認める。しかしその事情は、トシイが原告と同居して夫婦生活を営みたいというので被告等方の将来をも慮つた上これに同意したに過ぎない。」と述べ、立証として、証人加藤福蔵、同中野八郎の各証言及び被告等の各本人尋問の結果を援用した。

理由

原告が昭和二十八年三月頃挙式の上被告等夫婦と事実上の養子縁組をなし、同時に被告等の養女トシイと事実上の婚姻をなし、次いで右トシイとの間には同年九月二十六日婚姻の届出を了し、その間に長女恵美子(同月二十七日生)をも儲けたこと、しかるに被告等が原告との養子縁組の届出をなさないことは、いずれも当事者間に争がない。ところで被告等が右のように原告との養子縁組の届出をなさない理由として主張するところにつき考えるに被告等はまず婚姻の届出と同時に縁組の届出をなさんとしたが、当時原告が未成年者のため家庭裁判所の許可を要することが判明し同人が成年に達するまでその手続を見合わすことにしたという。そして原告が当時未成年者であつて、右縁組は家庭裁判所の許可を要することを同人等が知つたこと、なお当時原告の父金子三十郎が役場吏員をしていたことは、いずれも原告において争わないところであるが、右縁組は原告が成年に達したとき行うこととする諒解が当事者間にできたという事実は、被告等の各本人尋問の結果その他証人金子三十郎の証言等本件にあらわれた全証拠によつても未だこれを確認できず、却つて原告本人の尋問の結果に徴すると、原告は昭和二十九年初頃被告三作に入籍をしてくれと申入れたが、「原告が我侭だから家の二代目にはさせられない」とて拒絶され、その后同年三月頃から同人等の間がとかく円満を欠くようになつたことが窺われる。次に、被告等は原告が被告等との共同生活に協力せず反抗的態度をとつた旨累々主張し、原告はもともと被告等の養女トシイとの婚姻のみを希望し被告等方に同居して家業の農業に精進する気持はなかつたものであるというのでこの点について先ず考えるに、証人中野八郎、同加藤福蔵の各証言及び被告等の各本人尋問の結果を綜合すると、なるほど、原告が被告等と事実上の養子縁組をなすに至るまでの経緯は、被告等がいうように、原告と右トシイとは同村赤塚村から原告は巻農業高校に、トシイは中学に次いで新潟市の女子工芸校に通学するうち、相愛の仲となつて交際をかさね、やがて村人の噂にもなつたところから、同人等が年少で時期尚早とは考えられたが、被告等は家庭の円満をも考慮し、事情を酌み漸く仲人をたて、原告に対しては、特に、原告が被告等方に同居して家業の農業を継ぎこれに従事することを承諾させた上、トシイとの婚姻に同意し原告と養子縁組をすることにきめ昭和二十七年八月頃原告在学中のままいわゆる「足入れ」をさせた上爾后主として被告方から原告を通学せしめ翌年三月卒業の頃挙式したことが認められる(この認定を覆えす証拠はない。)が、原告が当初より被告等と同居して家業に従事する意図がなかつたものであるとの事実は、被告等援用の前掲各証拠によつても未だこれを認め難く、他にこれを認むべき証拠はない。むしろ証人加藤福蔵の証言及び原告本人の尋問の結果によると、原告は前記のように被告等方のいわゆる「先祖を守る」ことを約して「足入れ」をした后まもなく主に被告等方の家業に身を入れるため卒業を待たずに退学しようとしたが、被告等の勧めによつてこれを思い止まつたこともあつて、卒業后は被告等方に同居して共に農業に従事してきたことが認められる。次に進んでその后の事情について考えるに、証人中野八郎同加藤福蔵、同中原トシイの各証言及び被告等の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すれば、原告は当初被告等との折合に格別のことはなかつたが、昭和二十九年に入り被告等殊に被告三作との間に農作業の仕方その他日常のことからとかく感情の衝突をきたすようになり同年三月頃にはそのようなことから一旦は実家に帰つたが被告ハルの弟中郎八郎の勧めて被告方に復帰したものの、その后も被告等と衝突して家庭がとかく円満に行かなかつたこと、そしてかようなことはいわゆる学校上りの原告と専ら従来の経験に頼つて農作業に当る被告三作との時代差による意見の相違もさることながら仕事の面等で原告がとかく自説を主張して同被告との協調性に欠け、日常生活の面でも若年者にありがちのことで一見些事のようではあるが起床が遅れたり夜間遊びに出で帰宅が遅れたり被告三作等が働いているときに新聞を見て時を過したりするなど働き者の被告三作に対する心遣いが足らず多少共慎みを欠いたふしのあることにも一半の原因があること、しかも原告は被告三作と右のように調和を欠くようになつてからのことではあるが、一再ならずタバコ耕作組合、ミシン会社等他の就職口を捜すようなこともあつて原告夫婦だけで他に別居しようとトシイにも持ちかけ、或は実家の仕事の手伝にかこつけて上京するなど被告等から原告が誠意をもつて家業を継ぐ意思がないことを危惧させるような行為をなし、昭和三十年八月二十日頃には被告等のいうようなことがあつて再び実家に帰つたまま被告等方から迎えを受けながら、夜半手廻品を持出し被告等方に帰らなくなつて同年十一月頃荷物も持ち去つたものであること(なお、挙式前のことではあるが原告は被告等のいうように被告三作の入院中勧められて一度見舞をしたに過ぎなかつたこと)が認められ、以上の認定に反する原告本人の尋問の結果は採用できないし、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。(被告等主張(1) (2) の事実については直接これに副う証拠資料が見当らない)しかし一方、証人金子三十郎、同金子辰市、同中原トシイの各証言及び原告本人の尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すれば、原告は特に被告三作と折合わなくなつたもので、被告ハルからはむしろ何かと心配りや庇護を受け、原告とトシイとの仲も格別のことはなくいわば円満であつたこと、しかも被告三作は被告ハルが原告を庇つたり、トシイが原告と親しくするのを多少共快らず思う傾きもあつたと見られること、又被告三作が仕事面等で時に原告に出て行けよがしととられるような言辞をなしたこともなくはなく、若年の原告に対する思い遣りに欠ける嫌いもあつて、原告には居堪らなく感ぜられるようになつたこと、そして前記のように原告が他への就職を考えるようになつたのも多くはかような事情によるものと見られること、なお昭和三十年八月原告が実家に帰つた后同年十一月中旬頃被告三作は本家中原藤蔵方の番頭で仲人でもある加藤某とともに原告の実家金子三十郎方に至り、「今迄原告にきて貰つていたが相性が合わないしこれまでの縁と締めて貰いたい」旨申入れたこと、その后前記トシイも本件のことが縁由となつて被告等と協議離縁をなしたことが認められ、右認定を覆えす証拠はない。以上認定したところを綜合して考えるに、原告と被告等との間になされた本件事実上の養子縁組は原告が被告等方においてこれと同居し家業の農業に従事することを前提にしてなされたもので、この観点から見て、原告には幾多反省すべき点はあるとしても、未だこれをもつて被告等が原告との養子縁組の予約を履行しないことを正当ならしめる程の理由があるものとはなし難いものといわなければならない。しかりしかして原告は右のように被告等が養子縁組をしなかつたことにより、折角大学等への進学を断念した甲斐もなくなり、これにより原告の将来に期待を懸けていた家族とともに原告の受けた精神的打撃は痛切なものがあるといい、被告等は原告はトシイとの婚姻のみを希望して被告等と養子縁組をすることとしたものであるから、仮りに原告が進学の予定であつたとしても被告等が原告の進学の道をふさいだことにはならないという。ところで原告が被告等より同人等との養子縁組同人等の養女トシイとの婚姻の申入を受けたときは巻農業高校に在学中のもので大学等へ進学する希望をともかく懐いていたものであるが、これを断念して右申入に応じたものであること、そしてかような事情は被告等方においてもこれを諒知していたことは、証人金子三十郎、同陶山朝幸、同金子辰市の各証言、原告本人の尋問の結果並びに弁論の全趣旨をあわせ考えてこれを認めるに難くはなく、この認定を妨げる証拠はない。しかして原告が右申入を受くるに先だち既にトシイと相愛の仲であつて互に婚姻を強く希望していたことは前顕認定するところより明らかであるが、さればといつて被告等との養子縁組の予約が原告の進学を断念したことと無関係であるとはいえないことは従来説示したところより明らかであり、従つて又右養子縁組の予約がもともと申入に応ずるかどうかの点で原告の自由意思に基いていたものであるにせよ、今日その不履行により原告が右進学を断念した甲斐がなく機会を失わしめられたと感ずるのも、自然無理からざることと考えられる。しかして原告本人の供述によると、原告の実家金子三十郎方は田一町五反畑一町二反を、被告三作方は田一町畑五反をそれぞれ所有耕作し、原告自身は現に農協職員をしていることが認められ、これを覆えす証拠はない。

以上認定の諸般の事情を考量するときは原告が被告等の縁組予約不履行により蒙つた精神的損害に対する慰藉料額は金七万円をもつて相当と考えられる。

よつて原告の本訴請求は原告より被告等各自に対し金七万円の支払を求める限度において正当として認容し、その余は失当として棄却すべきものとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九十二条、第九十三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 三和田大士)

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